パンがなければ….

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『マリー・アントワネットの“パンがなければ…”とモーツアルトの求婚』

 
 
 
 
 
 
作家・市川 昭子さんから
 
 

 

『マリー・アントワネットの“パンがなければ…”とモーツアルトの求婚』Marie Antoinette

マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュMarie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d’Autricheを本名とするマリー・アントワネットは、オーストリアにて、1755年11月2日、ハプスブルク・ロートリンゲン家の出身で、オーストリア大公マリア・テレジアとその夫神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの11女として生まれました。

そして、アントワネットが14歳6ヶ月を迎えた1770年5月16日、フランスとオーストリアの関係をより密にするために、15歳9ヶ月のルイ16世と結婚し、その日からフランス国王ルイ16世の王妃として生きることになります。

母親のオーストリア大公マリア・テレジアが主に望んだ攻略結婚でしたが、結婚当初はルイ16世は彼女の可憐さにうっとりしたまま、幸せの絶頂にいたと伝えられますが、この結婚はアントワネットにとっては、悲運を招くものとなり、フランス革命中の1793年10月16日刑死し、僅か38年の生涯を閉じることになるのです。

★アントワネットは結婚前のドイツ語名もマリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲンMaria Antonia Josepha Johanna von Habsburg-Lothringenとフランス語名に負けじとも劣らない長い名前でしたが、オーストリア人として生きた14歳までは、皇帝の娘として何不自由のない、また、教育熱心な両親の元で暮らしましたから、マナーと教養が身についた高貴な貴族として育ちました。

その器量よしから、幼い頃から庶民の憧れにもなり、王族や貴族が集う上流社会では、若者たちの注目を集めるようになります。

また、音楽好きの両親だったことで、アントワネットは教養の一環として、1754年に母親のマリア・テレジアの宮廷楽長の地位を得たグルックらから音楽を教わっていましたから、音楽やバレエに興味を持ち、様々な音楽家たちの演奏会やバレエの鑑賞をしたり、得意なハープで独演会を開いたりして音楽に慣れ親しんでいました。

★そして、1762年9月、各国での演奏旅行の帰路、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルトは、当時6歳でしたが、7歳のアントワネットの可憐な顔とその悪戯っ気のある表情に惹かれ、プロポーズしたという有名な事件、いいえ、微笑ましいエピソードがあるのです。

映画などでその辺りのことが描かれていますが、6歳の坊やが7歳のお嬢様に結婚を申し込むなんて、アントワネットにしてもモーツァルトにしても早熟だったのでしょうか

★また、嫁ぎ先だったフランスには、当時入浴の習慣がなかったことで、幼い頃から入浴好きのアントワネットは、大きな容器を用意させ、そこにお湯を貯めて入浴を欠かさなかったと伝えられます。もちろん、アントワネット使用以来、その習慣はフランスにも導入され、今に至っています。

その頃には既に入浴時に体臭を消すために湯船に香料を入れるのが慣習となっていたオーストリアですが、彼女は香りの強い香料よりも心地好い香りを放つバラなどの花の香料を好んだことで、ヴェルサイユ宮殿の庭に芳しい香りを持つ薔薇や百合の花、そして、ハーブを植え、香りの追及と様々な改良がなされ、入浴剤として使用しました。それらが後に香水の発展に大きく寄与したことは誰もが知るところですね。

★次に「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」の発言の流布の真意です。

 

 

 

マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧しさゆえに充分に食事をとることができなくなったとき、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと伝えられますが、原文はフランス語で。「あなたたちはブリオッシュを食べたら」です。

でも、当時はブリオッシュはパンの扱いではなく、お菓子とされていましたから、お菓子を食べればいいじゃない”という訳で間違いはないのですが、パンもないのに贅沢なお菓子があろうはずもなく、例えあっても、庶民の手には届かない代物です。

飢えに耐えている民衆に、その手に届かないものを食べたらいかが、と発したとすれば、相手は腹が立ちます。

当然、相手を侮辱した言葉として、発言者が非難されても仕方のないことでしたが…。

でも、この発言は彼女が生涯を終えた約30年後に、マリー・アントワネット自身の言葉ではないことをルソーが1766年に出版した自作「告白」の第6巻で、明かしたのです。

★それは文中で

「農民にはパンがありません」との発言に対して、さる大公夫人が「それならブリオッシュを食べればよい」と答えた;

ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からそう報告されたことを思い出したと告白したからでした。

ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言ではないのかという説もありますが、その根拠はなく、結局、ルソーの告白が最有力とされ、世間に公表されたのです。

★その他、この「パンがなければ」発言事件だけではなく、アントワネットを誹謗中傷する多くの件も、ことの真意を探れば虚偽の話しが多いのですが、それだけ事実無根の話が実しやかに語られるほど、彼女に対するフランス国民の憎悪の念が激しかったという証しであり、味方を変えれば、発言をはじめ美貌、ファッション、教養など諸事に関して注目を集め、羨まれる女性だったということも考えられるのです。いわゆる今で言う“有名税”ではなかったかと思えるのです。

羨望の的であったとはいえ、フランス国民の嫌われ者だったアントワネットは、処刑後、遺体は哀れにも集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られましたが、後に王政復古となり、新しく国王となったルイ18世は、既に私有地となっていたマドレーヌ墓地を地権者から購入し、兄嫁の遺体の捜索を命じました。

そして、ごく一部でしたが遺骸を見つけ、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン・ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬されたのです;。

38年の短い生涯を他意によって終わらされたマリー・アントワネット;。ルイ16世に嫁がなければ、と悔まれもするのですが、これが定めだったのでしょうね;。

美しく聡明な女性として生涯を終えたアントワネットは、もしかして今なおこうして取り沙汰されることを知っていたのかもしれません。

モーツアルトがプロポーズしたことも今は理解できますね。素敵過ぎる女性でしたから;。

★写真はパリの街角に建つパン屋さん“ジェラール・ミロ”です。ここのブリオッシュの味は逸品です♪♪

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(トラベルライター、作家 市川昭子著)

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