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大きなものに纏(まと)められることの危険性

 

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石垣 稔さんの株式会社地域情報計画研究所を通してノートをシェアしました。

2013.04.03執筆記事

人間社会は多様性が必要です。わかりやすい比較例を挙げれば自然生態系が挙げられます。生態系の中ではどんな小さな虫でも、微生物でも、それぞれ自然界に必要な役割を持って存在しています。特定の種を絶滅に追い込むだけで、生態系全体のバランスが変化し、時に重要なものが失われてしまうケースは、歴史上の事実から観ても明らかな事実です。

▼集約されていくことの意味

さて、人間社会に眼を投じると、企業社会は既に多様性が失われ、大なるところに中小は呑み込まれ、独自に生き残ろうとする中小は蹂躙・駆逐されつつあるのが実情です。結果として、力を増し続ける大企業の企業論理を優先した商品・サービスが市場に溢れ、消費者は健康を損ね、公害の危険に常に晒されるようになってしまいました。

地域社会はどうでしょうか。地域には地域独自の文化が華開いた伝統工芸や風俗(祭りなどを含む)、そして言葉(方言)があります。これらは地域の先人達が自然の脅威と共生しながら、地域社会、人間を守り、育て、豊かな人生を享受するための多くの生活の知恵と教訓に溢れています。

これらが集約され、単一化していくということは、即ち、地域の独自性が失われると同時に、地域風土に根ざさない「文化とも言えない文化」が蔓延(はびこ)るということでもあります。先人達が後生に伝えようとしてきた大切なことを、次の世代に継承できなくなってきているのが現実です。


▼まとめられると選別される

多様性が失われるということは「選別される」ことと同義です。

—– 野菜の例 —–

「野菜」を例に取ると、現在市場に流通する野菜は、色も形も似たようなものが多く、画一化が進んでいます。これは売る側にとっての都合に他なりません。運搬・流通には好都合であり、一見新鮮に見える野菜は、消費者の評価も得られやすいのです。見えない部分では、収穫の効率化を図るための3点セット(効率の良い種「F1種」、農薬、化学肥料)を基本として、「売るためだけ」の生産・流通・販売体制が敷かれています。
この仕組みに、消費者の安心・安全は考慮されていないのは周知の事実です。種苗などは既に外資の思うがままの危険な状況です。そして、「規格外作物」は選別され、処分の対象となります。

自然界で育つ作物は、一様に画一化されたモノに育つでしょうか。このような規格に押し込めた作物を好んで食べるのは、人間くらいです。

—– 企業社会の例 —–

「企業社会」を例に取ると、事態はさらに深刻です。
現在の企業社会は、さまざまな業種・業態で、大なるものが小をのみ込み、さらに経営統合やM&Aなど、「まとめる」ことが平然と行われています。その思想に、消費者の多種多様なニーズに応えるという意識はありません。謳い文句として、「さまざまなニーズに応える」と掲げる企業はあっても、実情は酷いもので、消費者が望むサービスではなく、提供者側が押しつけるサービスが主流となってしまいました。

現在のこの国の企業社会は、「改革」「効率化」などと呼ばれる「まとめるための社会改悪」の嵐が吹き荒れた後、利益至上主義が蔓延し、「勝つか負けるか」、「食うか食われるか」「潰すか潰されるか」のような、欧米型の企業風土となり、かつての日本のような「調和」「共存」を良しとする企業風土は消え去りました。

この背景にも、「まとめ」(≒ 多様性の喪失)と「選別」の原理が働いています。選別のわかりやすい事例は「リストラ」ですが、昨今では、リストラのことを「経営合理化」とまで呼ぶようになりました。
「合理」とは、論理の法則にかなっていること、道理にかなっていること、の意味ですが、企業論理だけで人間を切り捨てることが道理であるならば、そのような社会は地に落ちています。

—– 家庭の例 —–

家庭における多様性の喪失は「核家族化」の進展です。
以前の日本家族の典型は、多世代共生型の大家族が主流でした。そのままでは日本文化の破壊、ウソの浸透、提供者側に都合の良い環境創出が困難であることは明白であったため、特に高度成長期が落ち着いたあたりから、この大家族制度を破綻させ、孤立化させる動きが顕著に見られました。大家族が崩壊し、核家族になることで、世帯数が増える(売れる台数が増える)目論みがあったことも否めません。

「嫁姑(よめしゅうとめ)の諍(いさか)い」なども、作為的、恣意的に仕掛けられたものです。大家族潰しのためのキャンペーンは、マスコミ、産業界が一挙総出で取り組んだ壮大な仕掛けだったのです。

結果、大家族という多世代に渡る「家族としての多様な機能」が失われ、伝統的な良い習慣は切り捨てられ、伝えられず、結果、多くの生活判断に迷う人間が増えてしまいました。そのタイミングをひたすら待ち、各産業界が「餌食」にするのです。

同時に「ウーマンリブ」などの女性解放運動、男女共同参画などと称し、女性を台所から社会に押し出したことで、さらに社会改悪が進展しました。男女には明らかな性差があります。これらを無視した社会参加は、結果的に女性を苦しめるばかりでなく、男性にとっても不幸です。そして日本民族にとっては、子作り、子育て、という最も大切な機能を不全にする効果もありました。

[補足]日本は、世界の中でも古くから男女平等が実現されてきた社会です。歴史は正しく伝えられていません。

—– 一般社会の例 —–

社会における多様性の喪失は「意識の画一化」であり「危険」の一語に尽きます。
憲法で謳われている基本的人権さえ、無視される事態となります。既に、その兆しは多くの場面で見られます。マスコミ主導による世論誘導などは典型です。

人間は動物的な本能として、群れを作りたがる基本性質を持ちます。勿論、それを超越した人間も存在しますが、「同じ意識を持つ人間への安心感」を感じることは多いと思います。これが、画一化されていくとどうなるでしょうか。異端は排除される運命を辿ることは、歴史的にも明らかです。

極度に多様化が失われた社会では、違う意識を持つ人間は、異質で邪魔な存在でしかあり得ません。そこで、命にも関わるような排除のされ方が横行することとなります。

最終的な「選別社会」は、すぐそこまで来ています。


▼駅近の路地裏文化からの考察

—– 危機にある路地裏文化 —–

戦後の闇市などの名残りで、ターミナル駅近くの路地裏には、今でも数多くの飲食店がひしめき合う区域が存在する場所があります。席数も数席しかなく、同業(焼き鳥屋など)も数多く出店しています。それぞれのお店では、人情味あふれるやり取りや、新しい出会い、学びなどがあり、料金も安いお店が大半です。また、1杯だけ飲んで帰る、という客のニーズにも応え、嫌な顔ひとつも見せません。こうした一角に惹かれ、ついつい足を運んでしまう方も少なくありません。なによりは、このエリアへの大手チェーン店の出店は、ほぼ無いのです。

この路地裏文化が徐々に姿を消し始めています。いわゆる都市再開発の一環で行われる駅前整備です。主な理由としては、地域防災の面で危険、不衛生、匂い、駅近を地域の顔らしい整備を行う、地域性を生かした有効利用、等々、さもありなん理由が列挙されます。

—– 路地裏文化の末路 —–

では、再開発後の地域はどうなったでしょうか。一見、すっきりと見える駅前ですが、人間らしい情緒や交流ができる場所は消滅し、大手チェーン等のどこにでもあるような店舗ばかりとなってしまう地域が多く見られます。

これも「集約」の一例です。

結果として、駅近が寂しい風景となってしまう地域が多いのも特徴的です。整備直後は珍しモノを観に来る来訪者も多いので成功したように見えますが、しばらくして飽きられると、「そこに来る意味」が無いので人が寄りつかなくなります。人が寄りつかなくなると、大手チェーン店は躊躇無く撤退します。そして、寂しい駅前が出現するのです。

そこで、往年の路地裏を再現しようとしても、現在の建築基準法では、同様の風情を再現することはできません。その地域が、最も大切な街の機能のひとつを失うのです。

—– 路地裏から見えること —–

効率のみを求める、特に大企業では、多種多様な客のニーズに応えきることは出来ません。また、消費(注文)を促進しなければ、営業効率が悪いと評価されます。これらをはじめとする大手企業が苦手な分野を、小さな店が補完しているのです。

新宿西口に「思い出横町」と呼ばれる一角があります。焼き鳥屋だけで 16店舗、居酒屋が 24店舗(公式HP)、その他にも多くの業種・業態の店がひしめき合っています。これらが、1店舗に集約され、メニューも豊富な大居酒屋になったと仮定します。そこにこれまでの客は来るでしょうか。

新しい客は来るかも知れませんが、これまでの客が来ないことは容易に想像ができます。そしてその新しい客も、店をいずれ見放して行くこととなります。

客が必要とするのは、その店にしかない「個性」です。そして、「個性」とは、店の主(あるじ)の人間的魅力、集まる客の人間的魅力、そこにしかない逸品、味、食材、雰囲気、空気、決め事、等々、複数の条件によって満たされるものであり、同じ業種・業態の「焼き鳥屋」であっても、中身は全く違うものです。そこで、同業他店が近くにあっても、干渉が起こりにくいのです。

人は、気付かぬうちに、この「多様性」によって生かされてきたのです。


▼景気が戻らないのも多様性の喪失から

現在では、さまざまな業種・業態で、大なるものが小をのみ込み、さらに経営統合やM&Aなどが一般化してしまいました。

その理由の一端が、「現代社会はニーズの多様化・複雑化への対応が急務である」などとする論調です。これは、正反対のことを行うために正当化された言い訳なのが実際です。そもそも、さまざまに多様化するニーズに応えるために、古くから多様な地域内サービスが数多く存在しました。これが地域社会を手厚く支え、多くの仕事を創出し、誰もがそれぞれの役割を持ち、活気溢れる地域社会形成が成されていたのです。
これらは、グローバル社会の進展、効果・効率化などと称して切り捨てられ、グローバル産業・企業を良しとするマスコミの論調に煽られ、結果として地域社会・コミュニティの崩壊・喪失、失業者の増加を招いています。

景気が戻らないことには理由があるのです。社会構造的な改悪が進んでしまった社会では、「景気」とは「大手企業の経営状況を示すひとつの指標」に他ならず、社会や、99%の人間には、何の御利益も無いのです。


▼市町村合併は成功したのか

1888年(明治21年)の市町村数は 71,314でした。現在(2012年10月1日現在)の市町村数は 1,719です。この数字をどう読み解くかについては、さまざまな論があると思います。
それだけ多くの地域文化が失われたと言っても過言ではありません。少なくとも、自治体名にはその地域の歴史や実情を象徴する命名がなされてきたので、そういった情報が失われてしまったことは事実です。


市町村合併は、過去、大きく3つの大きな動きがありました。
——————————————————
▽明治の大合併(約1/5に)
1888年(明治21年)末、市町村数:71,314
   ↓
1889年(明治22年)末、市町村数:15,820
——————————————————
▽昭和の大合併(約1/3に)
1953年(昭和28年)10月、市町村数:9,868
   ↓
1961年(昭和36年)末、市町村数:3,472
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▽平成の大合併(約1/2に)
1999年(平成11年)3月末、市町村数:3,232
   ↓
2006年(平成18年)4月末、市町村数:1,820

2012年10月1日現在、市町村数:1,719
——————————————————

平成の市町村合併についてみると、多くの市町村が合併した自治体では、公共サービスが行き届かない地域が発生してしまっているのが現実で、これまでより不便になってしまった地域さえ存在します。

市町村合併のその先にあるのは「道州制」などの、地域をさらに括るための話です。この場合の「州」は、国と同等の権力を持つこととされていますが、国としての力が弱まることも必定で、当然のことながら地域の多様性は失われていきます。合理的であるとする論調も存在しますが、「合理的」の意味を考えなければ、日本を滅ぼすことにも繋がります。


▼「まとめること」が行き着く果て

陰謀説とされるものの中に、世界統一政府による全体主義体制の構築をめざす考え方である「New World Order(新世界秩序)」があります。
これが陰謀説とされるのは日本くらいで、某この国の宗主国をはじめ、多くの各国首脳が関連発言を行い、時折、各国の議会などでも物議を醸している話です。決して絵空事の話ではありません。

これが実現されてしまうと、世界は恐ろしい状況になることは言うまでもありません。地域文化や企業社会、果ては個人の思想に至るまで、これまでに存在していた多様性は完全に失われ、単一化した商品・サービスだけが溢れ、良いモノは市場から消え失せ、一部の支配階級だけしか良いモノを得ることができず、生死や生殖に至るまでが管理される社会。。これはサイエンス・フィクションの話ではありません。現在、世界レベルで進展しているTPPやFTA、EPAなどもその布石であり、英語を共通語とする流れも同様です。

そもそも環境や風土、歴史・文化も違う国家間を越え、モノを流通させるということには最大の配慮が必要なはずです。最大の配慮の一例は、人間の健康です。自然環境や気候が違う国の食べ物が、万人に良いわけがないのです。グローバルなどという幻想は、国を崩壊させるまやかしに過ぎないのです。
現在の本当の翻訳技術(最高レベルは「軍事情報」扱いとされ非公開)も、リアルタイム翻訳でも相当なレベルまで向上しており、実際は他国語を学ぶ必要などありません。但し、それを公開しないのは戦略上の理由からです。自国の言語の学習より、他国の言語の学習をさせた方が、その国独自の文化や歴史、風習等を学習させないで済むからです。

静かに、着実に、集約され、
情報を奪われ、操作され、誘導され、
気がつけば身動きが取れなくなっている。
これが、私たちが生きている社会の本当の姿であり、
混沌である(ウソですが)とされる社会、世界が行き着く先の未来です。

— end —

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