何もしない農法を求めて

二十五歳の春、私は横浜の港で鴉が一声鳴くのを聞き、すべてが崩れた。その瞬間、「この世には何もないじゃないか」と確信し、それまでの人生が根底からひっくり返った。植物病理の研究者だった私は、顕微鏡をのぞき、科学の進歩を信じていた。だが、あの朝の覚醒以来、人間の知恵など所詮は虚像にすぎないと悟った。それから四十五年、私は「何もしない農法」をひとすじに追い求めてきた。自然農法とは、耕さず、肥料もやらず、農薬も除草剤も使わない。ただ種を蒔き、藁を振るだけの農法である。私の田んぼでは、稲を刈る前に麦とクローバーの種を蒔き、刈り取った後の藁をそのまま田一面に敷き詰める。これだけで、藁が発芽を助け、雑草を抑え、土を肥やしてくれる。化学肥料も農薬も必要ない。しかも収量は一反あたり十俵以上。科学的農法にまったく劣らない。これは「放任」ではない。自然の秩序を見抜いた上での「自然型」への誘導である。
この農法は、現代農業の常識をことごとく否定する。田は耕すもの、肥料は欠かせないもの、農薬は必要悪だと思われている。だが、それらはすべて、人間が先に不自然な条件を作り出したから「必要」に見えるだけだ。健康な人間には医者も薬もいらない。それと同じで、健全な土を作れば、肥料も農薬も無用になる。私は三十五年間、一度も田を耕さず、同じ田で米と麦を作り続けてきたが、土は年々深く、黒く、肥沃になっている。
ここで視点を反転させてみる。問題は農業技術だけではない。私たちの食べ物に対する価値観そのものが歪んでいる。消費者は見た目の良い果物を求め、少しでも甘く、大きく、早く出回るものを追いかける。その結果、生産者は着色促進剤、人工甘味料、防腐剤、ワックスと、次々に薬品を使わざるを得なくなる。ミカンひとつが店頭に並ぶまでに、五種類、六種類もの薬剤を浴びせられる。これは生産者のせいではない。私たち消費者の「ちょっとした欲」が、農民を追い込み、土地を壊しているのである。
本当に問うべきは、別の問いだ。人間は何を食うべきか、ではなく、そもそも「食」とは何か。西洋の栄養学はデンプン、タンパク質、脂質という要素に還元するが、それは間違いだ。山菜や野草には、化学肥料で育てた野菜にはない「コク」と薬効がある。放し飼いの鶏の卵と、バタリーケージで飼われた卵では、味も栄養もまったく違う。人間は「パンのみによって生きるにあらず」である。食とは栄養素の集積ではなく、自然の一部であり、精神と切り離せない。
問題の核心は、もっと手前にある。人間は自然を知っていると思い込んでいるが、実は何ひとつ知っていない。科学者はクモとウンカ(稲の害虫)の関係だけを研究し、水の専門家は水だけを見る。だが田んぼの中で起きているドラマは、クモ、カエル、微生物、雑草、気温、日照り、すべてが絡み合う無限の要因から成り立っている。部分を切り取って「わかった」と語るのは、象のしっぽをつかんで「これは蛇だ」と言うようなものだ。
農業技術者の多くは、哲学者ではない。彼らは「ああすれば良くなる、こうすれば良くなる」と技術を積み重ねるが、その方向自体が間違っている。必要とされるのは、「ああしなくても良かったのではないか」と問い直すことだ。私は四十年かけて、種を蒔いて藁を振る以外のすべての行為を削ぎ落とした。これ以上手を抜くところはない。それでいて収量は変わらない、いや、むしろ高い。
では、私たちに何ができるのか。答えはシンプルである。何もしないことだ。ただし、それは無為に怠けることではない。自然の秩序を深く見極め、その上で「しない」という選択をすることである。わら一本の重さを知ることだ。この軽くて小さなわらが、発芽を助け、雑草を抑え、土を肥やす。農業に革命を起こすのは、巨大な機械でも、新たな化学薬品でもない。無価値に見えるこのわら一本なのである。
この農法は、単なる農業技術の域を超えている。それは科学技術信仰そのものへの批判であり、成長・拡大を無条件の善とする近代文明への挑戦である。アインシュタインが相対性理論で時間と空間を結びつけたとき、世界はますますわからなくなった。だが、達磨大師は九年間壁に向かって坐り、何も言わなかった。彼の無抵抗の抵抗こそが、真の智慧である。雨が降ればよし、晴れればよし。雲の上は常に青空だ。
結局のところ、人間は何かを「為す」ことで幸せになれると思い込んでいる。だが真実はその逆である。私たちがしてきたことは、自然から離反し、破壊し、混乱を深めるばかりだった。人類救済の道は、「何もしないようにしよう」と努力することの外にない。たとえそれが、この狂った世の中では「馬鹿」に見えようとも。私は保育園に行くために生まれてきたのではない。ただ、生きるために生まれてきたのだ。わら一本を拾い、それを振る。それだけでいいのである。
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書籍『自然農法 わら一本の革命』福岡正信


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